小山英樹のみらい教育LABO 記事アーカイブ

小山 英樹

一緒①

夏休みに帰省していた息子が、昨夜長崎に戻りました。
息子は高校3年生。高校生ですから自宅にいるのが一般的でしょうが、うちの息子は地元を離れ、長崎で居候生活を送っています。
帰省中、自宅には帰らず、私の事務所で寝泊まり。ずいぶん長い時間を一緒に過ごしました。
ところで、「一緒」って何なのでしょう?
時間と空間を共有すること? 同じ体験をすること?
私は息子と同じ部屋で時間を過ごしました。たくさん会話・対話をしました。互いにとって、意味のある時間だったし、楽しい時間でした。
でも、「同じ時間」とはいえ、厳密に言えば、私の1時間と彼の1時間は、価値も感じ方も違います。これって、一緒?
「同じ場所」とはいえ、私と彼は2mぐらい離れています。また私にとっては自分の城である事務所ですし、彼にとっては「父さんの仕事場」です。これって、一緒?
「同じ体験」とはいえ、私が話すとき彼は聴くし、彼が話すときは私が聴く。息子が「ほら、ちょっと見て」と言ってスマホを差し出し、私が動画を見る。互いに大笑いしましたが、私は動画が楽しくて笑ったし、彼はそれに加えて父がウケてくれた喜びがあったのかも。これって、一緒?
こう考えると、「『一緒』って何だろう?」ってなるわけです。
「非一緒」を考えてみるほうが分かり易いかも。
先日、「○○について一緒に探究しましょう」というリーダーの宣言でスタートしたオンライン会合がありました。ところが、当のリーダーが、メンバーに興味を示さない。メンバーがどんな受け取り方や感じ方をしているのか、どんな表情をしているかに興味を示さず(または興味はあるがキャッチせず、あるいはキャッチしているがスルーして)、ただ予定通りの話をする。予定通り質問時間を取る、予定外のことがあると微妙に動揺する。予定通り粛々と進め、予定通りクロージングしようとする・・・「非一緒」感覚の会合でした。時間や空間を共有しても、体験を共有しても、それが「一緒」ではない。
「一緒」には、互いが相手に興味を持ちあう、あるいは相手の存在を感じあうことが必要なのではないでしょうか。そこに意識のシンクロが重なるとさらに「一緒」度アップ。
「一緒」感のある仕事や研修をしたいと改めて感じました。
そして、息子とも、遠く離れて暮らしながらも「一緒」を感じあえるとうれしいなと思います。
続く。